心神喪失・耗弱でも刑法上の責任能力はあるのか?

刑法上の「責任」ってわかりますか?

刑法では、

 

・精神疾患病

 

・飲酒酩酊

 

・覚せい剤等

 

・子ども少年犯罪

 

・カッとなった

 

 

このような場面で責任能力が問われます

 

精神障害でも権利があれば刑法の「責任」は発生するか?

 

理屈っぽいですが、考えてみます。

自己決定権を基礎に帰責性は考えられます。権利があれば、責任は発生するのでしょうか?

 

自ら精神障害を招いて罪となるべき事実を発生した場合、責任無能力の規定を適用しない。これが、原因において自由な行為の理論です。

しかし、飲酒したら、殺人を犯すのでしょうか?

責任が発生するとしても、殺人の責任ではありません。あくまでも、精神障害を引き起こした責任のはずです。

また、自己決定権があるから責任が発生すると考えると、人はだれもが自己決定権を持つので整合性が失われます

 

そもそも心神喪失とは?

 

医学的な話でもなく、法律判断の話でもなく哲学的な話になってしまうのですが、心神喪失と認められる状態その判断はとても難しいはずです。

そもそも、責任能力は、「行為と責任の同時存在の原則」といって、行為時において存在しなければなりません。

責任能力の有無は、「犯行時の行動」について判断されなければならず、究極的には、事後的な精神鑑定などで判断すべきではないはずです。

 

行動は精神を表すのか?

 

「客観的な行動が犯罪を物語る」と言えそうではありますが、責任無能力となるため、あえて、奇怪な行動をとる可能性もあります。

そうすると、むしろ計画的な行動で責任を逃れようとするのであるから、余計にあざといので、責任は重くすべきです

一転して、否認している場合とかよくありますよね。

 

脳に機能障害があるような場合、人ではなく災害か

 

もし、脳機能に障害がある場合、「脳に機能障害があって仕方がない」とするのでしょうか

責任がなくても実害はあります。発生してしまった犯罪の結果、これはどう解消したらよいですか?

事理を弁識することができず、猟奇的な犯罪を引き起こしたというのであれば、責任能力を問うことができるのか?、あるいは過失でよいのか?

もし、責任能力なしという場合に、このような人の行動は、動物、災害と同じような「危険」と考えることもできそうです

そうなると、その扱いには、人権という憲法の問題点を孕むことになり量刑の問題も出てきます。

逆に、危険で処理された場合、残された遺族のやるせなさ悲しみは一体どこに解消されるのでしょうか?

 

事後に引きずる責任能力の問題

 

この責任能力の問題は最終的には事後に引きずっていくものです。

もし、刑を受けて、社会復帰した後に、再び悲劇を引き起こした場合、責任を負うのは誰ですか?

 

本人?

無罪にした裁判所?

釈放した刑務官?

鑑定書を書いた医者?

それとも擁護した弁護人?

 

「危険」な人物と考えるとき、その扱い方は非常に難しくセンシティブな点をはらむことになります

現在の憲法では個人主義のもとに、いかなる人も人である以上、尊重され、あらゆる危険は社会全体で引き受ける

国家として、社会として、犯罪には正面から向き合う必要があり、危険人物とするなら、公的機関によって管理されなければならない

その場合、個人の人権侵害は許されない以上、少なくとも申立権者の画定、親族の合意などの意思決定の問題であったり

待遇の内容とその経済上の政策などなど、、クリアしなければならなくなります。

 

刑法が見落としている視点

 

責任能力を考えるとき、従来の議論では明確に欠落している視点があります。

それは、「事理弁識能力がなく、責任能力がないのであれば、より一層、重大な注意義務が発生すべきである」という点です

逆説的なのですが、本来この視点なくしては、あらゆる公共性も語ることができなくなります。

犯罪は刑法だけで語れるものではありません。妥当な結論とは何でしょうか、いったいどうするのがよいと思いますか?