池袋暴走事故の「求刑が軽い」という意見に対して「重い」と言っていることについて

池袋暴走事故の求刑の話についてです。

犯罪を犯した時、「刑罰が重いか軽いか」というのは刑事政策上のお話で「刑の量定」といいます。

これは、犯罪に対し与えられる刑罰が妥当かどうかということですが、一般的な感覚としても一致するでしょう

ここでの関心事は、刑事政策にしろ一般人にしろ「犯罪に対して、与えられた刑が重いかどうか」です

これに対して、裁判官が、その裁量により法定刑の枠内で刑の種類と量を決定することは、「狭義の量定」といいます。

法定刑は、刑法上犯罪に幅を持って定められているものです。

これは、さらに加重減軽されることがあり、その結果最終的に宣告されるものが「処断刑」です。

裁判所は、法定刑のうち刑種の選択をし、それから加重減軽の選択、執行猶予などを自らの裁量で決めますが、これが「刑の量定」です。

刑の量定をするには一定の基準が必要です

これを「量定基準」といいますが、その基準はどのようにして決められるでしょうか

それは、やはり「犯罪に対して刑罰が重いかどうか」です

犯罪と刑罰が均衡を保っているということは刑罰が、応報原理に立脚していることを意味します

刑罰が応報であることが量定基準となるのです

そのため、「最終的に宣告される処断刑が犯罪行為に対して均衡を保っているか」という観点で考えなければなりません。

裁判所は、検察官が行った求刑「何罪の法定刑何年」のうち、法定刑何年という部分は拘束されませんが

しかし、「そもそも何罪が成立するか」については、検察官の主張に拘束されます。

検察官の主張する犯罪が認められるか否かしか判断できません

これは「当事者主義」といって、厳格な手続きをとるため、刑事訴訟法上、裁判所の判断は、検察官の主張する範囲を超えてはならないことが定められているからです。

すなわち、検察官の主張する犯罪と刑罰が、最終的な処断刑を決めるため、それが軽いというのであれば

それは刑罰の均衡が保たれていないという意思を意味です

自動車運転過失致死罪であれば法定刑上限だとしても、そうではなく実際には被告人の行為は殺人であり殺人罪で問えばもっと重い刑罰のはずだろうという主張のはずです

これに対して、法定刑上限を求刑しているから刑罰が重いというのは誤りです。

たしかに、検察官が主張したものしか審理対象にならない。

そういいたいのかもしれませんが、それは反論になっていません。ただ、詭弁、屁理屈あるいは論点ずらしとなります

それは刑事訴訟法の手続きの話であって、国民の言いたいに対応していません。

実際、「訴因変更」といって、検察官の主張を変えることを促すこともできます。

犯罪は罪刑法定主義といって犯罪に対して刑法上法定刑がきまっており、他の犯罪が成立しないのであれば他の法定刑を求刑することができません。

自動車運転過失致死罪の場合はどうやっても自動車運転過失致死罪の域を超えることができません

重い処罰が適用されるときは、危険運転致死や殺人罪で問うている必要があります。

そうすると、情報(証拠)を持っていないのでえらそうなことは言えませんし、本当に証拠も殺意もないのかもしれませんが

それでも、殺人罪で立件せず、法定刑が軽い自動車運転過失致死罪で法定刑上限で求刑したという本件は、

表向きはどうあれ、どうも被告人に忖度しつつ世間には、いやいや法定刑上限ですよというアピールをしているパフォーマンスに見えます

これは、「素人は法律をわかっていないんだ」という専門家のプライドにも沿うものがあり

実際、多くの弁護士が法定刑が上限だから重いんだという主張を展開されています。

しかし、刑法の目的、存在意義、機能を考えれば、犯罪と刑罰の均衡は最も重視すべき事柄であり、その判断は国民のはずです

しかも、国民感情は、明らかに犯罪行為及びその後の態度に対する刑罰の軽さに言及しています

中には悪意なく、国民の言わんとすることがほんとに理解できていない悪気の無い弁護士もいるかもしれませんが、

法定刑が上限だから重いという反論をしているのは非常に残念なことだと思います。

ということで個人の感想をつらつらと申し訳ございませんでした。