無罪推定原則とは?「疑わしきは被告人の利益に」との違い

無罪推定原則とは?

無罪推定原則とは、犯罪の嫌疑を受けている被疑者や、公訴提起されて裁判所の審理をうけている被告人は、裁判所が有罪判決を下すまでは「罪を犯していないもの」と扱われなければならないという原則です

正確には「無罪の推定」といいますが(推定無罪は明確に間違いです)

これは人権の観点です。国家による個人の扱い方の問題で

フランス人権宣言で初めて明文化されました。また、国際的にも自由権規約14条2項で認められています。

このようなルーツを考えると、個人の扱いというこちらの意義が大きいです。

しかし、実際には刑事訴訟法の教科書では無罪・有罪の区別の基準を示すような誤読を招きかねない表現がされています

たとえば、以下のような一文がありました。

「検察官が被告人の有罪を合理的な疑いを超える程度に証明しなければ、被告人は有罪とされないという原則である」(渥美257頁、平野187頁、上口404頁)

このような「証明がなければ有罪とされない」原則である

これではミスリードです
(※確かに、無罪推定の原則の内容をものすごーく広くとらえればそうでしょうが、意義ではないでしょう)

~有罪とされないでは、「証明水準」の話ですよね。しかも、その基準も「判例」上、示されたにすぎないものです。

「検察官に証明責任がある」というのも、無罪が推定される「結果」(帰結)です。

無罪が推定されるということの最大の意義は、やはり「被疑者・被告人が罪を犯していない一般市民と同じ人権の取扱いを受けるべきである。」という点です。

「疑わしきは被告人の利益に」とは?

この原則から導かれるものが、「疑わしきは被告人の利益に」という原則で、利益原則とも呼ばれるものです

これは、日本の場合、「被告人の利益となるように判断する」(in dubio pro reo)

とされています。

この表現、曖昧にぼやかされているのです。

「判断する」ということは、裁判所の視点ですね

ここで見落としがちであるのは、「検察官が挙証責任を負う」ということです。

というのも、もともとは、職権主義のドイツ法由来であり、裁判所の判断を定めたものですが

しかし、英米法の当事者主義の観点からは検察官が果たすべき挙証責任を定めたものとされ、両者の側面がある。

日本の刑訴の場合、両者の面を含めているので曖昧になっています。

この利益原則によって、「私人の扱いも有罪判決を受けるまで一市民であるべき」という政策的観念が導かれます。

無罪推定原則では、それ自体が被告人を無罪として扱おうとするのに対し、利益原則では、価値判断として無罪とするべきですそうしましょうと導く点が異なります。

導かれる考え方は、無罪推定原則のときと同じですが、こちらはあくまでも政策的、日常的な私人の価値観です

検察官が挙証責任を負う、証明がなければ被告人の利益となり、無罪となる

それならば、証明があるまでは無罪であるべきではないか

ということになります。

論理的には繋がりませんが、価値判断としては全うです。

大した違いはないのではとも思えますが、刑事だと些細な違いが人の人生を左右するので、言葉の扱い方ひとつとってもミスリードがあってはならないという考え方も頷けます。

もっとも、テキストを見ても整理されていないような印象なのでこれが正確だなどと偉そうなことは言えませんが

ということで今回は以上になります。

お読みいただきありがとうございました。