【補強法則】どうして日本の有罪率は99.9%なのか?

有罪率99.9%とは

今回は、有罪率99.9%といわれている刑事訴訟の闇に法的な観点から迫ります。

日本では、有罪率99.9%って話がありますが、これにはちょっとしたカラクリがあります。
(もちろん、事件の7割くらいは不起訴なので確信するまで起訴されないという部分はあります。)

刑事訴訟法にはすこし変わった規定があります。

いつ冤罪や事件に巻き込まれるかわからない世の中では、刑事訴訟法について知っておくことは超大事だと思ってます

逮捕や取調べでの問題点もあるのですが、ほんとに冤罪だとしても証拠がちゃんとあれば真犯人はわかりますので、大きな問題は、現実の事件には証拠がないという点です

犯人の自白のみでは有罪にならない証拠認定のルール

一応、法律としては、信頼性に乏しいから定めてます。

なので、被告人の自白以外に証拠が必要となります。
(犯人とされて起訴されている人を被告人といいます。また、このような証拠を補強証拠といいます。)

有罪という大きな判断を支える補強という意味です

では、共犯者が自白した場合、その自白は被告人の自白とどう違うのでしょうか
(ちなみに、正確には共同被告人ですが、無視してください…)

共犯者の自白は、被告人以外の自白として証拠になるのか?

証拠になるということは、別に補強証拠は不要です。共犯者の自白が補強証拠だからです。

証拠にならないということは、別に補強証拠必要です。共犯者の自白が補強証拠にならないからです。

通常、被告人と利害関係のないような人の証言は証拠になります

では、利害関係がある共犯者の証言だとしたら?

ふつうの証人の時と同じように扱えるか?というところがポイントになります

共犯者の証言を被告人の自白と同じように信用に欠けるとするならば、これを証拠として有罪にすることはできません。

一方、共犯者の証言だとしても、被告人の自白とは訳が違うんだ、ということであればこれを証拠とすることができ有罪にできます。

このように、共犯者の証言を被告人の自白と同視する場合、別で証拠が必要ということになり、有罪にはできません。これを補強証拠必要説いいます

不要であれば有罪にできます。これを補強証拠不要説といいます。

共犯者の自白が真実であると思わせるような証拠が、別途必要か不要かという意味なんでややこしい(笑)

共犯者の証言も証人として証言するので、嘘をつかないことを宣誓させられますし

また、反対尋問といって、検察から厳しい追及があるので、嘘をつくのは難しくなってきます

そうすると、反対尋問を経てなされた証言には一定の信頼性が認められそうです。

注意すべきことは、被告人も検察の取調べを受けていますが、有罪に流れやすいかどうかではなく、あくまでも言ってることの信頼性の話です

ポイントはどういう状況のもとで、話している証言なのか?

これは警察や検察の取調べによる被告人の自白は、強引に認めさせられた可能性があることを前提にしているからです

被告人の自白と共犯者の証言しかないケース

共犯者の自白を、補強証拠として良いとすると

補強証拠不要説

・被告人は、共犯者の証言を補強証拠として自白とあわせて、有罪となります

・一方で、共犯者の証言は、共犯者にとって自白なので、証拠が自白のみとなります。

・補強証拠が必要なので、自白のみでは有罪とならず共犯者は証拠不十分で無罪になります

このような、共犯者が有罪となり、主犯は無罪となる非常識な結論になることがありえます。

補強証拠不要説によると

・共犯者の自白には、反対尋問ができるので嘘っぽい確かめられる

・被告人の自白と同一視する必要がない

・なので、被告人が有罪となるのは、共犯者の自白が信用できるとされた結果である

という反論をしているのです

そもそも、「自白」というそのものが信頼に欠けるのではないか、とは思いますが。

判例や実務では、不要説に立ち、共犯者の自白だけでいいとなってます

不要説の方が、別途、証拠を探す手間もなくなりハードルが下がりますから99.9%というのは、法律上の構造も大いに後押ししています。

無罪推定・疑わしきは被告人の利益にという
崇高なる理念を掲げようと実際に、捜査活動や、訴訟行為を行うのは人であり、行政機関であり、警察、検察です。

刑事事件における手続きを定めているのが刑事訴訟法ですので、実際の捜査活動や訴訟行為について、厳格に向き合わなければならないことは言うまでもないです。

余談ですが、「憲法改正せずに中国に攻められたらどうするんだ」というのは、立法論として論点がズレています

行政政策の観点は、憲法の立法解釈とは別物です。

あくまでも憲法の認める範囲内で行政政策が決まります。

もっと建設的な議論をするためには、問題の所在を見極めるために必要な知識と態度が必要になってきます。