今回は、取材の自由が表現の自由として含まれて保障されるのか、という話で、博多駅テレビフィルム提出命令事件です
よくある誤解を招きやすい言い方として、
「取材の自由も報道の自由の不可欠の前提をなすので取材の自由も保障される」という表現です。
これはややニュアンスに注意が必要です。
原則、保障されないとされていたところ、この判例で批判するかたちであらわれたからです。
表現行為が、取材構成発表の連鎖であるから保障が与えられるべきという趣旨の主張でした。
博多駅テレビフィルム提出命令事件とは?
博多駅テレビフィルム提出命令事件とは、放送各社が撮影したフィルムについて、裁判所から提出命令を受けました。
これに対して、撮影したフィルムは報道に使うものですから、これを国家権力によって提出を強制されることは、
表現の自由を侵害し違法であるということを理由に命令の取消請求をした事案です。
裁判所も統治機構の1つなので、裁判所の行為にも強制力があり憲法上の抵触が起きます。
もし、提出命令が認められると、「将来取材をする際に不利益がある」のではないかということを主張します。
これは、取材協力者が萎縮してしまい、協力や発言などで萎縮して「取材ができなくなる」という制約があることになります。
ただ、ここには1つのハードルがありました。
それは、「フィルムはまだ取材に使用したにすぎない」ということです。
報道という発表の行為ではないため、「表現」として表現の自由に当たるのかという点が問題意識となります。
取材は憲法上保障されるか
そのようなことから、「取材」が憲法上、保障されるのかが論点となります。
取材は、あくまでも「発信する行為」ではありません。
しかし、取材は、報道の一環であるということができます。
まず、報道はご存知のように表現の自由として保障されます。
そして、その保障は実質的に認められなければなりません。
そのため、報道の元ネタとなるフィルム、そのフィルムを制作する取材も報道の自由を保障するために不可欠なものです。
報道の内容を担保するために必要不可欠な取材も、表現の自由である21条の趣旨に照らして考えると、十分尊重に値するべきものであると考えることができるのです。
※メモ採取行為も「尊重に値する」
制約が許される正当性の根拠を「公共の福祉」ではなく、「公正な裁判の実現」という憲法上の要請があるとしている論理展開がポイントです。
憲法上の要請があるとは、憲法には(明言されていなくても)制約が求められているということを意味しているので、公共の福祉より正当性が強いと言えます。
公務員が一定の制約を受けたり(憲法秩序の構成要素となっているから)とか
租税法律主義(限られた財源の使用使途の制限)とかが類似しています。
表現の自由など本来自由であり制約されないはずの私たちの「権利」を制約する制度、法律が認められる根拠(制約を認めて良い理由)に当たるもののことを「正当性」といいます。
憲法上の審査基準
本件では、どのような場合に違憲となるかの基準をたてているかというと、以下です。
「証拠として使用することがやむを得ないとは言えない場合または報道機関が受ける不利益が必要な限度を超える場合、違憲になる」
これは、(証拠の価値)と(報道機関の不利益)の「比較衡量」でした。
その比較検討する事実についての考慮要素(抽象的な規範)としては以下の事実が挙げられています。
・犯罪の性質、態様、軽重
・取材したものの証拠としての価値
・公正な刑事裁判の必要性
これらは事実を検討する上での観点となります。
このような観点から
・取材の自由が妨げられる程度
・報道の自由に及ぼす影響の度合い
この2つの観点を比較しています。
そのため、本件では、(現場映像なので)証拠の価値は重要なものでしたので、報道機関の不利益をよく検討して評価がされていると言えます。
判例では、
・証拠としてきわめて重要
・罪責の有無を判断するのに必須
・放映されたものを含めている
・放映されていないものも準備されている
したがって、将来の取材の自由が妨げられるおそれがあるにすぎない程度
としています。
やや弱い当てはめになってる感じもしますが
端的にいえば、
「刑事裁判に必要なのか、それとも取材が妨げられる程度の方が強いのか」
こうした点を評価していけばよいでしょう。
知る権利を、はじめて持ち出した判例であるとされています。
この判例にはいろいろと課題はあり、公共の福祉ではないことや放映済みのもののみ差押えているなどがあるようです。
というわけで、今回は以上です。お読みいただきありがとうございました。