石に泳ぐ魚事件とは?わかりやすく判例解説【芸術性と司法の交錯】

これは、小説のモデルになった者が、プライバシー侵害であると主張し、表現の自由と衝突した判例(最判平14.9.24)です。

作者で当事者の柳美里さんは芥川賞作家でもあり、かなり民権運動のようなこともされているようで社会派な方。

本件も繊細な問題ですので(一部感想も述べますが、)あくまでも、判例の法的な判断を解説することを目的にしていきます。

石に泳ぐ魚事件の事案とは

柳美里の小説が文芸雑誌に掲載されました。それでは、次のような描写がされていました。

・若い女性の顔に腫瘍があることの描写が詳細

・父親の逮捕歴

・新興宗教に入信したこと

・金員を無心したこと

このうち、「モデルの方」と「登場人物」の同一性が容易に識別できるためプライバシー名誉感情などを侵害したといって原告が不法行為を主張します

・ 慰謝料請求

・ 謝罪広告の掲載請求

・ 出版の差止請求

出版関係の裁判ではお馴染みですがこれら3つの請求を立てました。

判決のポイント

本件のポイント、まずは事例判断であることです。

上記のような事実関係によれば、

「公共の利益に関わらないプライバシーにかかわる事項を公表されることによって、公的立場にない者の名誉等を侵害され、重大で回復困難な損害を被らせるおそれがある。」

したがって、プライバシー名誉の侵害を認めました。

また、「夕刊和歌山時事事件」、「北方ジャーナル事件」を引用して、

21条1項に違反しないものとしており、表現の自由に対する違反ではないと否定しています。

顔面の腫瘍はプライバシーか?

宴のあと事件で示された基準によれば、保護されるプライバシーの要件には、「公知されていないもの」という要件があります。

からだの表にあらわれている顔面の特徴は、この非公知性という要件を満たさないとも思えます。

本件では、顔面の描写以外の点も含め、プライバシー侵害を認めていますので、はっきりと明言したわけではないです。

顔面の描写がプライバシー侵害になるのかどうかは残された課題とされています。

小説と現実が近接するモデル、モチーフ

三島由紀夫の「小説とは何か」という小説論によれば

「フィクション小説とは、作家が現実世界から刺激を受けて、独自の視点から再構成して作られるものであるから作品内のすべての事象は、どれほど現実の事実と似ていてもすべて異なる次元に属するのだ」

とこのようにいいます。

これに対して、表現が名誉やプライバシーを侵害することについての問題点とは、

「読者に認識された結果を問題とするのだ」

と宴のあと事件などの考え方からは反論されています。三島由紀夫はこの「宴のあと事件」で争っています

すなわち、法律論では、読者の認識において人物像やその言動が特定の人物と結びつく場合には問題になり得るということになります。

(厳密には基準が無いという批判はできますが、)いくらこの小説は自分のことを言っていると思ったとしてもあまりにも誰にでも当てはまり得る表現では現実、問題になりません。

しかし、作家に他意はなくても、受け取る側が不快感を持てば名誉侵害が成立するという立場をとっています。

こうして考えると、表現の自由より個人の名誉の方が強い権利といえそうですね。

地裁によれば、芸術性は個人を侵害しない

なお、地裁レベルでは、「名もなき道を事件」(東京地判平成7.5.19)で、

「モデルが同定できる場合でも、芸術的な昇華の度合いによっては権利侵害の問題は生じない」

とされています。

作家や憲法学者もこの立場ですね(高橋治の文学論不在の法廷、奥平康弘のジャーナリズムと法)

たしかに、芸術に関心がある人たちが主張したいことはわかります。

しかし、それだと、裁判所が文学の芸術性を裁くことになり逆に問題ではないかと思います。

裁判所は司法の範囲でしか判断すべきではありません。(個人的には、正直、裁判所に芸術性を判断されたくないという気持ちもあります。)

そして、物書きは文章のプロのはずなので、不快感を味わうことのない表現が求められるべきで、不法行為もその範囲内かどうかの問題であり、その判断をするのがそれぞれの役割として妥当であるように思われます。

というわけで、今回は以上です。ありがとうございました。