一つだけ言っておきたい
私が不退転の覚悟を決めたのは、
『法律』というものを毛嫌いしていたからに他ならない
静岡の小さな田舎出身の私にとって、
大学がどんなところなのか
想像もつかなかったのですが、
自由に勉強ができると期待に胸を躍らせていたことは間違いないです。
(私ははじめ、政治学を主に勉強してましたが、
紆余曲折あって、法学を研究する道に進みました)
しかし、大学の勉強はどうもダメでした
範囲が限られてて、
実生活とどう関わっているのかイメージができなくて
そして、なによりもとても退屈なんです
教授や実務家の先生の講義は、なんだが消化試合なのかなと思ってました、、
さらに、司法試験制度がまさに激変の時代でした
やっぱり、法律を学ぶ人にとっては一つのゴールが司法試験ですよね
そんな司法試験ですが、
かつて、誰でも受験できるものでした。
ところが、そこに受験資格ができたのです
これは、受験回数の制限がない制度の下、学生が若い時期を受験勉強のために浪費した、
だから受験回数を制限してあげるのだという理屈です
本来、私たちは人生いつでも何度でも挑戦したっていいじゃないですか
それほど特殊な事情がないので、
試験に受験回数を制限するのはちょっと違うかなと思ってます。
自分の人生は自分で決める。
夢を追いかける。
私はそれで良いと思っていて
自分もそうですし
そんな人たちを応援したいと思っています。
ただ、むかしは、世の中の声とか、
ネットの情報とか
周囲からどう思われるか
みたいなことがどうしても頭にあって、
悩むことが多かったです。
そして、そんなとき、私が出会ったのは
伊藤真先生でした。
彼は、私が憲法を学んだ方で、
日本一日本の憲法に熱い人です。
彼の理念にはこんなものがあります
“人はみな同じで、人はみな違う”
これが個人の尊重なんだ
ってことです。
一人の人として尊重され、生きる価値がある点では
誰も、何ら違いはない。
一方で、誰一人同じ人なんていない
だからこそ、
一人ひとりが、かけがえのない存在である
これを聞いて、私は勇気づけられ、自分に正直に生きようと思えるようになりました。
さらに、こんなお話があります。
私はこれに支えられ、法律を勉強し続け、
法律に関する知識を発信することを決意しました。
『多様な人材が自分の意思で、
年齢、学歴、受験回数などに関係なく、法曹をめざせる。
いつでも学習したいときに自由に学び、挑戦できる、そんな制度のどこが不合理なのでしょうか。
何よりも実は、こうした誰でも挑戦できる仕組みが、これまでこの国の「法の支配」を支えてきました。
司法試験に本気で取組み、合格はしなかったものの、公務員、他の士業、民間企業、NPO、NGO、家庭、国際社会で活躍している人材が多数います。
かつて年間5万人いた司法試験志願者のうち大多数が法曹にならなかったとしても、実はこの国の法制度を社会において支えているのは彼ら・彼女らであり、十分にその学びを生かして社会に貢献しています。
法曹三者のみがこの国の法制度を支えていると考えることは傲慢であり、司法試験不合格を人生の落伍者のようにレッテル貼りをする上から目線の発想はやめるべきです。
また、目的をもって学んでいる時間を合格しなかったからといって、人生の浪費と評価する価値観を私は持ち合わせていません。
ところで、司法試験の一発勝負の弊害ということもよく言われます。
司法試験が試験である以上、それは当然のことのはずです。
オリンピック選考試合と同じで、そこまでに十分に練習する。
つまり勉強をして合格する。
そのプロセスがあって合格するのです。
もちろん運が悪くて落ちることはあります。
それはどの世界でも同じです。
受験生は、折れそうになる気持ちと闘いながら、必死に努力を続けています。
その厳しい勉強のプロセスがあっての合格です。
それを一発勝負などということは本当に失礼千万。試験の現場を知らない者の戯言としか思えません。
誰もが最もいい時期に、それぞれの打ち込みたいものが見つかる。
それを見つけたときに誰でも挑戦できる制度が教育制度として優れていると考えています。
一人ひとりの能力を引き出すことが教育の本質であり、この点はどのような教育においても同じだと思います。
これから試験に臨む皆さんには、それがどんな試験であっても真正面から向き合い、ベストを尽くしてきてほしいと心から願っています。
真剣に努力し、その過程で得たものは、これからの皆さんのキャリアにとって、かけがえのないものになることは間違いありません。』
人生にはさまざまなことがありますが、
どんな回り道も、二足の草鞋を履いてもいいんじゃないかと思っています。
自らの力ではどうすることもできない事情で苦しむこともあります。
そんな人たちの力にすこしでもなれればと思っています。