既判力のよくある間違い
既判力の作用についてはこのような間違いがあります。
このように、既判力が作用するのは3つの類型のみであるというのは間違いです。
「既判力が作用するのは、同一関係、矛盾関係又は先決関係に当たる場合である」
と、このような記載表現がよくなされているため、間違えてしまうのでしょう。
もし、そう考えるならばそれは間違いです。なぜかというと、これ以外の場合でも作用するからです。
というのも、「既判力が及ばない場合にも既判力が作用する」ということがあるからです。
また、次のような記載も注意が必要です。
「既判力は、前訴と後訴の訴訟物が同一、先決関係、矛盾関係の場合に作用する。」
これは、間違いではなさそうです。
しかし、「場合に」と言ってしまうと、あたかもこの3つの場合にのみ、作用すると言っているようにみえます。
実際に教科書でも使われてはいるから問題はないですが
あくまで理解としては、
・ 同一「ならば」、作用する。
・ 先決関係「ならば」、作用する。
・ 矛盾関係「ならば」作用する。
とそれぞれのケースを言っているにすぎません。
規範、要件的に3つを挙げてしまうと、この3つの場合に限りといった趣旨になるので望ましくはありません。
読み手のリテラシーが必要になるからです。
所有権確認請求と既判力の作用
さて、それでは「既判力が及ばない場合にも既判力が作用する」についてですが、
たとえば、「所有権確認請求」を考えます。
前訴で売買契約が認められている場合に、後訴で贈与を主張するなどして売買契約が無かったと主張するとします。
「売買契約」は、「請求原因」であり、所有権という法律関係を基礎づける「事実」です。
しかし、同時に「理由中の判断」でもありますね。
では、理由中の判断に既判は生じるでしょうか。
後訴でこれに反する事実を主張できるでしょうか?
※もちろん「新主張」であれば大丈夫です。基準時を超えているからで、問題になりません。
これは既判力の時的範囲の問題です。(すなわち、時的範囲を検討し、客観的範囲の検討へ流れる。)
基本的には、前訴で売買契約があり所有権が認められていますから、後訴で売買契約は無かったと言うことはできないと考えるのが妥当ですよね
ところが、これは理由中の判断ですから、既判力は生じていません。
つまり、「既判力が生じること」と「既判力が作用すること」は別になるのです。
ここで、私たちを混乱させる犯人がわかりました。
混乱の正体
既判力について混乱してしまう犯人は、「及ぶ」という言葉です。
「既判力が及ぶ」では、既判力が生じたのか、作用したのかどちらの意味なのかわかりません
既判力の定義からすれば、
「力」です。
どういう力かどういう力が働いているかというと
主張を、「遮断する力」
「作用する」とは、既判力が生じていないのに、既判力が生じた時と同じような遮断する力が生じることなのです。
これを及ぶとして表現してしまうと、すべてを包括した抽象的な表現となってしまうのでしょう。
わたしたちは客観的範囲の論証に引っ張られすぎていたわけです。
そして、及ぶという曖昧な表現でぼやかしていたことでこの微妙な違いを見過ごしてきました。
そのため、及ぶは中間というか曖昧になるので避け、及ぶとあったら意味に注意を払います。
既判力の作用の場面がよくわからない原因
主張等が排斥される場合が生じることを、「既判力が作用する。」と一般に表現されています。
では、3つの類型に当たらない場合はどうでしょうか。
さきほどの誤りのように、3つの類型のみと考えてしまうと、
3つの類型のいずれにも当たらない場合、既判力が作用しないことになります。
そうすると、後訴裁判所が、前訴判決の既判力で確定された判断内容と矛盾する判断でも認定することができることになってしまいます。
「訴訟物が同一関係、矛盾関係又は先決関係のいずれにも当たらない場合には、後訴裁判所が前訴判決の既判力が作用しない」
これは誤りで、作用することがあります。
これを、当たり前に思うか、違和感を覚えるかはわかりませんが
短答問題のように正誤を答えるのみであれば間違えることがないにもかかわらず、
論述しようとすると難しく思えたり、教科書がよくわからなく感じるのはこの辺りに原因があるように思います。
ここでよくわからない原因とは、「既判力が生じる範囲」と、「既判力が作用する範囲」が異なる、ということが見落とされているからです。
既判力が生じる範囲と作用する範囲
既判力が生じる範囲は、主文などの「請求の趣旨」ですが
既判力が作用する部分は、「請求原因」などの主張だからです。
そのため、作用するとは、正確には「既判力の作用力」みたいな感じで、別個の力であり、じわじわ広がっていくイメージがあるのです。
また、本来、「既判力」の正確な定義から考えると、客観的範囲は、主文に限られないはずです。
そのため、制定法主義をとっているのに、条文上の「主文に限られる」という言い方は間違っていることになります。
既判力が作用する対象
「既判力が作用する」というのは、既判力で確定された判断を基礎にしなければならないから、既判力と矛盾する主張等は排斥されます
そうすると、作用する対象のほとんどは、請求原因、法律関係を基礎づける事実の主張となってきます。
つまり、ほとんど訴訟物でも請求の趣旨(主文)でもないことになります。
主文に限られるというのはもはや無意味です。
なぜ、既判力は理由中の判断に作用するか
なぜ、既判力は理由中の判断に生じないにもかかわらず、理由中の判断に作用するのでしょう。
それは、「旧訴訟物理論」に根があります。
じつは、旧訴訟物理論では広すぎる権利関係を訴訟経済や矛盾を減らすために既判力を認めて絞りをかけているという関係になっています。
訴訟という現実世界の手続きを定めるという特徴から理想論である実体法とあわなくなってしまっているのです。
こういった現実問題への修正をかけることを、「訴訟政策」といいます。
既判力の本質という論点
既判力の本質という論点では、そもそも既判力とは「訴訟政策説」といって、訴訟上で認められるパワーであるとされています。
かたや、旧訴訟物理論は実体法上の権利関係を単位としています。
そのため、「Xの権利」と「Yの権利」はまったく別であると考えるのでした。
しかしこれでは、ものすごく狭い範囲なので、これを押し通すと、どうしても矛盾した判断がリアルな世界では生じ得ます。
そのため、紛争解決としては望ましくないため、訴訟においては政策的に「範囲を広げる」必要が出てきます。
範囲を広げる作業は、既判力の客観的範囲や主観的範囲、既判力が作用するかといった論点に結びついてくるわけです。
この旧訴訟物理論は、決して悪いことではないと思われます。
審理を柔軟にしたいという要請があるからです。
とくに、物権では顕著で一物一権主義を原則としているからXに所有権が認められればそれ以外の者Yには認められませんが
でも、旧訴訟物理論としては、Xの所有権とYの所有権は別個の権利と考えているため、訴訟物は異なることになります。
あとはそれが矛盾であるときにこれを新事実が無い限り排斥することになります。
反対からみれば、旧訴訟物理論に抵触しかねない機能をもつものが既判力なのであり
これを訴訟手続き上認めているから訴訟政策説なのですが
民事訴訟法は、本質がリアルな世界ですから、原理から一貫しているわけではなく、さまざまなところで譲歩しあいながら妥当性を追い求めているわけです。
ということで、今回は、以上になります。お読みいただきありがとうございました。