違憲審査基準と多くの人が使っている審査基準ということばは違います.
憲法は事実認定の価値判断が千差万別というだけで
決して難しい理屈ではありません。
しかしながら、憲法はブラックボックスだと試験で言われてしまうのは丁寧な解説が少なく飛躍が多いからではないかと思っています。
誰もが当たり前のように使っているためになんとなくでやり過ごしている審査基準を解説していきます。
違憲審査基準と審査基準論は違う
まず、「違憲審査基準」と多くの人が使っている「審査基準」ということばは違います
違憲審査基準のほうは一番大きい概念で、憲法判断の基準を指します。ここにすべて包括されます
一方、審査基準とは、小さい概念で、違憲審査基準の中でも、厳格な基準、合理性の基準(緩やかな基準)、厳格な合理性の基準という3つに分類して判断するものです
これは「審査基準論」という芦部説に立脚した判断です。あくまでも、違憲審査基準のうちのひとつの説であり、判例では採用されていません。
憲法が難しいと言われる原因
審査基準論はあまりにも有名になりすぎました。
審査基準論の本来の用語を置いて、審査基準という言葉の部分が、一人歩きしてしまった結果、
憲法判断をすること(=違憲審査基準をどうたてるのか)という意味で、審査基準と使われるようになりました。
これによって、多くの受験生は、憲法判断をするさい、審査基準論のように3つのどれかに当てはめなければならないかのように誤解し始めます。
そして、判例ででてこないために憲法の判例がよくわからない ⇒ 憲法は難しいという状態を招きました。
ここでとまっているため、憲法はブラックボックスだと感じるようになってしまい、
結果として、原告が厳格な基準を主張し、被告は緩やかな基準を主張し、裁判所(私見)は、厳格な合理性を主張すればいいと思考停止してしまうことになります。
そうすると、試験では、憲法の核である「違憲審査の判断基準」の部分が全員同じという点数のつけようのないことになってしまうのでした。
これが、当てはめ重視、自由演技、憲法はセンスのように言われる原因です。
審査基準論とは?
審査基準論とは、人権の重要性に応じて緩やかな基準から厳格な基準を使い分けるものです。
このとき人権の重要性を精神的自由と経済的自由で分けており、これを「二重の基準」といいますが、判断の基礎に置いています。
原則としては、このように人権の重要性から出発します。
さらにここでポイントとなるのが、「裁判所が仲裁者としてはたらくような場合には個別的に比較衡量によって審査する」という考え方です。
審査基準論のすごさ、本質はこの考え方にあります。
審査基準論の登場
なぜこの考え方がでてきたか、この考え方は後発です。
もとをたどれば、憲法に反するかは「公共の福祉」という基準で審査をしていました。
(しかし、みなさん感じているようにこれではあいまいです。)
これを裁判所としては、「個別的比較衡量」というものを行ってきました。
これが、「比較衡量論」です。
「比較衡量論」とは、国家の制約によってもたらされる利益と制約される個人の利益を比較するというものです。
しかし、これでは、国家が制約する利益の方が、社会全体の利益ですから優先されることになってしまいます。
こうした点を指摘するように主張されたのが「審査基準論」というわけです。
国家権力とはいえないような個人の利益と個人の利益の衝突の場合に
同程度に重要な二つの人権を判断するようなケースならば、仲裁者として裁判所が機能する(できる)ため、
比較衡量はこのようなケースに限定するべきということを主張します。
裏を返せばこのようなケースではない場合、
国家優先になって結論がみえてしまうので別の視点から判断するべきでそれが人権の重要性だというわけです。
また、判例は比較衡量において審査する基準を明確には示していませんので、この点に問題があるという批判的な思想が根本にあります。
二重の基準論とは?
先ほど申し上げたとおり、
審査基準論は原則として、人権の重要性を中心に据えており、二重の基準を基礎としています。
ここで二重の基準(論がついて言われることが多いですが)が出てきます。
「二重の基準論」とは、精神的自由を規制する立法の合憲性は経済的自由を規制する立法よりもとくに厳しい基準によって審査されるというものです。
この二重の基準論は、学説に支持されていますが、判例でも「分けて考える」という点については採用されています。
ただ、二重の基準論は、
・ 精神的自由と経済活動の自由を単純に二分しているわけではないこと
・ 優先順位をつけているものわけでもないこと、
・ なぜ精神と経済がわけられ精神が厳しい基準なのか理由付けができないこと
・ 保障の程度を同じくする領域が含まれていることや13条や社会権を検討できないなど問題があります。
ということで、審査基準論を使う場合、判例の立場を示しこれに対する反論として持ち出すのが本来正しい答案のマナーとなります。非常に困難な筋です。
また、精神的自由のうち、表現の自由については、さらに内容規制、内容中立規制の違いがあったりするので、なかなか妥当しにくいと思いますし
個別的に考えないと、明確性の理論、明白かつ現在の危険の基準、より制限的でない他の選び得る基準など
事案に応じた判断をしている判例が理解できず混乱が生じると思います。
さらには、経済活動の自由が絶望的に理解できなくなります。
「二重の基準論」の登場
さて、「二重の基準論」(double standard)というのは、従来の「比較衡量論」の問題点を指摘して主張されたものでした。
じつは、言い方、説明のしかたがいろいろあるのですが、
二重の基準論が出てきた背景を紐解いてみると、本質的なところは、
「人権の性質に応じて基準は変わり、裁判所は仲裁者として機能するわけではない」という点にあるのです。
裁判所が、勝手な価値観で「こっちの方が優越する」と言ってしまうのを克服するためです。
なお、精神的自由と経済活動の自由を分けて、経済活動の自由より精神的自由の方が、厳格な基準で審査されるのだという説明があると思いますが
これは正直、的を得ていないかなと個人的には思ったりしてます。
目的二分論とは何か
「合理性の基準」とは、立法目的および目的達成手段を一般人を、基準にして合理性が認められるかを審査します。
これは、立法府の判断には、「国民主権の裏付けがあるため合理性がある」ということを前提としています。
これを「合憲性推定の原則」といいますがこちらから導かれ
経済的自由を規制する法令の合憲性判定で使われる基準です。
(もちろん、国民主権は形式的なもので選挙制度と立法過程への疑問はあるのですが置いときましょう。)
この合理性の基準は規制する「法令の目的」によって2つに分かれます
これを「目的二分論」といいます。
一つは
これを「厳格な合理性」といっています。
※合理性の基準にLRAを加えている分、厳格となるのです。
厳格な合理性の基準というのはややミスリードで
「合理性の基準」のうちの厳格なものという意味での定義ではなく、一般的な用語としての基準がくっついています。
もう一つは
これを「明白性の原則」といっています。
権利の内容、規制の目的、態様によって細かく基準を考えて変えていこうとするものです
ただ、精神的自由についての統一した基準があるわけではありません。
経済的自由については合理性の基準があるため勘違いしやすいところですが、二元ではないのです。
精神的自由も経済的自由も同じ領域を含み重なる関係であることを認めていますし、
また、社会権や幸福追求権なども加えて人権の限界を検討すべきという問題点もあります。
ようするに、二重の基準とは二つの審査基準で判断するという意味ではなく、
むしろ、基準がいくつもあることを認めようとするものです。
二つ以上の複数の基準を使って審査されなければならないと考えていく理屈であるということができます。
このように、「複数の違憲かどうかを判断する基準というものが、なんとなく体系化され学者の考え方として整理されている」というのが実情の姿です。
判例はかならずしもこれらの審査基準のもとに判断しているわけではなくそう示しているわけでもないです。
学者側から裁判を分析したとき、おおむねこのような枠組みで判断しているのではないかといった話になると思っておくと良いかと思います。
ということで今回は以上です。お読みいただきありがとうございました。