アメリカの違憲審査権
アメリカにおける違憲審査権は「法の支配」を根幹としています
法の支配とは、専断的な国家権力の支配を排斥し権力を法で拘束することです。
これは、「国王すら法のもとにあるべき」という思想なのです
そして、この法は、国民の権利義務を守るため、国民自身が決定します。国民の権利義務を保障するものが憲法です。
法の支配の内容として権力の恣意的行使をコントロールするため裁判所の役割が求められるそのため、違憲審査権が必然的に求められることになります。
ドイツの違憲審査権
一方、ドイツにおける違憲審査権は「法治国家」の原理を反省することから出発し、これを根幹としています。
法治国家とは、法律に基づいて国家作用が行われることです。
議会の制定する法律があればいかなる国家行為も可能でした。
議会の制定する法律の合理性は問題とされませんでした。
そのため、ナチ党が権力を「民主的に」独占することができたのです。
この反省から法律の内容の正当性を審査し、不当な内容は排除するという制度を設けこれが違憲審査となります。
違憲審査というよりも、法律の不当性審査といったニュアンスなのです。
そうでなければ、議会によって制定される法律によらなければ国家行為の立法は許されないため裁判所による審査はできません
権限を認める根拠もないし三権分立に反するということになります
違憲審査権は政治的
このような理由のため、ドイツやフランスでは、政治的な色の強い機関が違憲審査権を有しているのです。
憲法裁判所というのは、憲法について判断する機関という意味で、裁判所ではありません。
ドイツにいたっては「憲法」ですらないので、「基本法に反していないか判断する機関」と呼ぶ方が正確でしょう
だからこそ、事案の紛争を解決に必要な範囲という限定された権限(付随的違憲審査制)ではなく、
法として、正当なものかどうかを判断すること(抽象的違憲審査)が可能になるのです。
法的な違憲審査制は控えめ
一方、司法権として機能させようとすると控えめにならざるを得ません
アメリカも日本でも、紛争解決に必要な限度でしか違憲審査されません。
日本もアメリカの判例理論を輸入しているから同じですが、
アメリカで「合憲限定解釈」とか、「憲法判断回避の準則」といった理論があるのは、紛争解決に必要な範囲とされているからです。
合憲性推定原則とか、違憲判断が少ないとかそういうのはぜんぶ統治機構の仕組みに由来するものです
必ずしも忖度しているということではないはずです。
(もとより、エリート意識の強い裁判官が、学歴重視ではない政治家に忖度するとは思えませんが)
最高裁が違憲判決を避けるのは人事権を握られているというような言い方もされますが、
違憲審査が、三権分立に反する行為であるという内実があるのです。
基本的には三権分立への抵触を気にしているような気がします。
一個人の紛争で立法に影響を与えるということになりますので慎重にならざるを得ないでしょう。
違憲審査権と三権分立
よく違憲審査権は三権分立の文脈で説明されることが多いです。
しかし、根拠ではなく、結果帰結です
「三権分立だから、違憲審査制が認められる」のではなく、
「違憲審査が行われる結果、三権分立が果たされる(又は資する)」というのが適切でしょう
根拠だとすると、違憲審査が国会に恣意的な立法を萎縮させる機能があるはずですが、
そうだとすると個別的な紛争解決に限って作用するという付随的違憲審査制であることを説明できません
立法行為は個別事情を無視した一般的抽象的規範定立行為だからです。
ただ一種の告知機能あるという点で影響を及ぼし権力の均衡と抑制が働き得るというにすぎません
立法権に対する抑制、権力の分散均衡を目的とするために国会へ影響を与えるというものである
ここまでくると間違いになる気がします
※ただし現代的に変容はしています。
最もいいたいことは、古典的な説明があった上で、日本としての「独自の変容」があり、さらに、実際の運用をしていくなかで現代社会への適合という「時代的な変容」をしているということ。
理解のためには古典的な説明は必要ですが、
とくに、法学部や法曹、果てはロースクールでさえ、政治学を学ぶ機会がないからか、
憲法の根本的な部分が政治学の理解に支えられているにもかかわらず混乱が生じています。
現代日本が良い意味で節操なく色んな概念を取り入れ(受容)、それを日本版にアレンジしていく(変容)というのは政治学では基本です
法曹をめざすなら政治学は必須なのでこれから勉強する人には知っておいて欲しいと思います。
立憲主義と違憲審査権
意外に思えるかもしれませんが、違憲審査権は権力分立に反する制度なのです。
なぜなら、法律の制定は国会の権限で、それに対する干渉を認めることとなってしまうからです。
そして、統治機構のうち、司法権(裁判所)のみが国民によって選出されていないという構造になっています。
また、国会は国民によって選出されており、これに反する権限は、国民主権の否定です。
権力分立とは、「国家の作用を別の機関に振り分けて担当させる」というものです
国家の作用は基本的に国民に対して向けられるものであって、他の機関に向けられるものではありません。
そのため、歴史的には、違憲審査権は権力分立に反することを理由として
裁判所がこの権限を持つことはためらわれてきました。(とくに大陸法(市民法)の流れをくむドイツ、フランス)
では、なぜいまあるのか?
というと、第二次世界大戦時のヒトラーの独裁体制があったからです。
ヒトラー(ナチ党)は驚くべきことに合法的に権力を独占しました。
当時、世界一民主的と言われたワイマール憲法があったにもかかわらずです。
これは、「権力の独占を認める法律を食い止めることができなかった」という教訓です。
この教訓から、「法律は、憲法の認める範囲で定めなければならない」という考え方・価値観が要請されるようになります。
これが「立憲主義」です。
立憲主義とは、憲法に立脚した国家をつくるべきという主義です。
(立脚は憲法に基づくという意味で、主義は考え方という意味)
憲法の範囲で国家行為は行われるべきであるという考え方になるのです。
とうぜん目指すのは権力を好き勝手にさせない恣意を防ぐという目的である
これは英米法由来の法の支配に近いです。
違憲審査権とフランス・ドイツ
ここから出発すると、法律が憲法に反する場合にはこれを無効としなければならず、その権限が違憲審査権となります。
すなわち、違憲審査権の根拠は立憲主義の要請にあります。
このような背景があります
そのため、どうしても法律が国民の権利を縛るという考え方である大陸法からは説明がしにくいのです
ドイツやフランスでは、違憲審査権はやはり消極的で、フランスにいたっては司法権に帰属させていません。
フランスでは違憲審査権は「憲法評議院」という機関が持ちます。
これはまさに憲法裁判所ではあるのですが、きわめて政治的な機関であるため、裁判所という表現はどうだろうと思います。混乱を招くから適切ではない気がします
一方、民事・刑事は「破毀院」、行政事件は「国務院」という機関が担うことになっており、こちらが我々のイメージする「裁判所」です。
ドイツでは、「連邦憲法裁判所」という機関が担います。
(そもそも憲法ではなく「基本法」であり、改正もされまくっているがここでは憲法としておく)
これは形式的には司法権のなかにありますが、この裁判官はすべて国民に選ばれたという建前を持っている「政治家」です
そして、民事や刑事行政などといった事件を担当する機関は、やはり「裁判所」として別に設置されているのです。
日本の場合、憲法を最高法規としているため
その実効性を現実的なものとするために違憲審査権を認めている。と説明されています。
(つまり、三権分立からは説明できず、そもそもイデオロギーからは説明できず、現実の要請)
「憲法に反する行為法律や国家行為は無効であるが、それは、国家行為の合憲性を審査し決定する機関があってはじめて現実に確保される。」(芦部390頁)
なお、英米法系では違憲審査権があると思われているかもしれませんが、イギリスにはありません。
おわりに
というわけで、長々としてしまいましたがいいたいことはシンプルです
法思想の概念の由来こそあれど、現代の統治機構は素直ではありません
アメリカの英米法が~とか、日本は大陸法を採用して~というのはナンセンスです。
さらにいえば、日本は英米法も大陸法の考え方も受容したうえで、変容させいわば日本独自の法思想、法体系を作りあげています
日本はいい意味で節操なく他国の価値観を取入れますし、それを日本独自のものに変容してきました。そうした歴史の積み重ねです
これは、政治学では当たり前の考え方です
法学者の見解が大陸法なので、それが正解といわれればそうかもしれませんが、そう考えるとまったく説明がつかないことばかりでしょう?
民事訴訟なんて職権主義なのか当事者主義なのか意味わかりません
大陸法でもコモンローでもどちらでもないし、というのが身もふたもないけれども正しいのではと思います。
というわけでお読みいただきありがとうございました。