不真正不作為犯とは、期待された作為を行わないことをいいます。
不真正不作為犯の論点は、作為と不作為の区別と思っている方もいるかと思います。
じつは、よく誤解されがちなところなのですが、作為と不作為の区別は観念できません。
あくまでも刑法としての評価の問題でありあまり試験的に重要なものではないのです。
ということで今回は、不真正不作為犯についてわかりやすく解説していきたいとおもいます。
不真正不作為犯とは?
不真正不作為犯とは、期待された作為を行わないことをいいます。
これは、行為ともとれますし、意思ともいえます。
そのため、作為と不作為の区別は観念できません
期待されたこととはちがうことをして結果が発生した場合、期待されたこととはちがうことが結果を発生させるような行為ではないとき、その『作為』は、結果を引き起こしていない以上、犯罪は成立しません
しかし、期待された行為をしなかったことから結果を発生させるという場合は犯罪が成立します。
期待された行為をしないという事実に対する刑法としての評価なのです。
不真正不作為犯の実行行為性とは
とくに、典型的なケースとして医療のケースがあるとおもいます。
適切な医療行為をしないで医療行為とは関係ない行為をした場合、医療とは関係ない行為をしたから死の結果が引き起こされたわけではないでしょう。
しかし、適切な医療行為をしないことが死の結果を引き起こしたのだという評価なわけです。
こうして、作為犯と不作為犯が同時に成立しますし、作為が結果を引き起こすようなものであるときは犯罪が複数成立するということなので罪数処理の問題となります。そのため包括一罪や観念的競合となります。
溺れていて藁にも縋ろうとしてるひとを助けずに捕まれる藁を遠ざけたりなんかして溺死した場合には作為の殺人不作為の殺人が成立するでしょうし棒でつついたりして怪我でもしたら傷害も成立するというかんじです。
不真正不作為犯の作為と不作為の区別
では、このような不作為を実行行為としてとらえるのか本当にそれでよいのかというのがいわゆる学説の問題点なわけです。
医療行為のケースでいえば、適切な医療行為をしないという行為ととらえることもできますが、行為そのものがないわけです。
でも、適切な医療行為をしないことは人間の意思に基づくものです。そこには、危険性を認識しているのか無意識なのかはわかりませんが結果を引き起こすことを許容する意思に基づくものともいえます
そのため認識の次元にあるともいえるということなのです
これが、実行行為性ではなく、その人しか助けられない立場にあったのにという、保障人的地位という身分で構成したり、それは殺人に等しい犯意に基づいているのだという正犯性があるという意思で構成したりして身分犯や正犯性の問題として捉える立場が保障人説で非常に有力な学説となっています。
ただ、実際には説明の仕方なので、行為でも意思でも身分でもどっちともいえるわけですが、試験とは関係なくなります。試験は問に答えるものです。
問は罪責を聞いてるので構成はなんでもよくなんらかの立場をとることを暗黙の前提として記述していく必要があるため学説の対立を説明する必要もないのです。
旧試験で多くみられた法律論を論ぜよみたいなふんわりした言い方をされるとある程度必要ですし、結論が左右されたり、論理展開が変わったり実益が生まれるような論点によっては多少説明が必要になったりはします。
保障人説でいくと、伝統的な体系での論述が難しくなるので簡単な実行行為性の問題ととらえてしまって余計なことをせずに書くというのがスマートなやり方になります。
刑法では、罪刑法定主義がベースにあるので、刑法典に書いてないことは処罰できなません
そのため、不真正不作為を認めようとする場合、不真正不作為犯の成立範囲を限定しなければならないのです。
そうして不真正不作為犯の成立範囲を規範として基準を明らかにしなければ明確性の原則に反することになります。
そこで、どういう場合であれば不真正不作為犯が成立するのかという基準を立てることになります。
これが不真正不作為犯の成立要件とはという論点です
不真正不作為犯の成立要件とは?
不真正不作為犯の成立要件とは、端的にいえば、作為義務があるかということになります。
作為義務の発生根拠について、残念ながら学説でも一致していませんが、逆に、発生根拠はいろいろあるということで一致しています。
有名なのが形式的三分説で、「期待された行為とは、法令や契約関係がある、事務管理が求められる、慣習や条理上行為が求められる」というものです。
期待された行為が求められるということは作為義務が発生しているということです
これがどういう場合に発生するのか?をおおきくわけると3つに分けられるということです
これを規範ぽくすると
とかになります。
そして、学説や判例では基準が一つになっておらず作為義務の発生根拠はいろいろあるという点で一致しているのでいろいろ事案によって出てきます
判例で出てきたり有名なものとしては、「先行行為があったこと」や「法益が排他的支配下にあったこと」などがあり考慮事由に入ってきます。
そして、作為義務があり、期待された行為を行う義務があり、期待された行為をおこなうことが容易にできたのだとすればその期待された行為をおかなわないということは犯罪をしていることと同じであるということですので、これをかっこよく規範ぽくいうと
『作為義務があり作為可能性・容易性が認められる場合、法益侵害の現実的危険性を惹起する作為犯と構成要件的に同価値である』
これが、実行行為性の論点としてとらえることを暗黙の了解としているので、実行行為性が認められるかという問いをたてて実行行為性が認められると結べばよいのです。
これで論証が完成します。
いいかえると、実行行為性が認められるためには作為義務および作為可能性・容易性が認められ作為犯と構成要件的に同価値といえることが必要である。などです。
まとめ
不真正不作為犯に実行行為性が認められるか
作為義務があり、作為可能性・容易性が認められる場合、法益侵害の現実的危険性を惹起する作為犯と構成要件的に同価値であるから不真正不作為犯が認められる。
作為義務の発生には法令・契約関係、事務管理、慣習・条理等を考慮すべきである。
こちらは下位規範をたてるまとめ方で論証している形式です。もっともよくみかけるスタイルですね
覚えにくいものではあるので、覚えやすい書き方(○○の場合、○○と解するのスタイル)に変えてもいいと思います。
不真正不作為犯の具体的な判例とは?
作為義務の発生根拠はいろいろあるといいました
作為義務が発生するのはどういう場合かについて作為義務が発生するかどうかを判断する時に考慮すべきことはなにかについては問題となっています
これは事案ごとに判例が判断するからですが、なかなか一般化は難しいです。とくに重要な判例はシャクティパット事件です。
シャクティパット事件(最決平成17年7月4日刑集59巻6号403頁)
ここでは、事例判断として先行行為、排他的支配下を示しました。
① 自己の責めに帰すべき事由により患者の生命に具体的な危険を生じさせたこと
② 重篤な患者に対する手当てを全面的にゆだねられた立場にあること
③ 医療措置を受けさせないで自らが救命できるとする根拠がなかったこと
この3点を挙げています。3分説にない要素が出てきたので重要な判例となっています。
事案の処理、当てはめとして重要ですから試験にもよく類似問題がでているとおもいます。
『自己の責めに帰すべき事由により患者の生命に具体的な危険を生じさせ、患者の親族から重篤な患者に対する手当てを全面的に委ねられた立場にある被告人が、未必的な殺意をもって、必要な医療措置を受けさせないまま放置して患者を死亡させたときには不作為による殺人罪が成立する。』
(最決平17・7・4刑集59・6・403)
一方、古い判例や裁判例では不作為犯ではなく、作為と評価しています。
作為と構成要件的に同価値ではなくもはや作為だというわけです。
こうしたところからも作為と不作為の区別はほぼ不可能ということがうかがわれます。
不作為犯はけっこうファジーです。
(大判大4・2・10刑録二一・九〇)
(東京地判昭40・9・30下刑七・九・一八二八)
(大判大7・12・18刑録二四・一五五八)
(大判昭13・3・11刑集一七・二三七)
(最判昭33・9・9刑集一二・一三・二八八二)
(大判大7・7・17刑録二四・九三九)
ということで、今回は以上になります。お読みいただきありがとうございました。